「お金と命とどちらが大事」、または「経済と命とどちらが大事」

昔からもよく聞くセリフで、最近の原発/電力不足問題でもよく聞かれます。「お金」と「命」を天秤の両側に乗せてどちらが重いのかを比較しています。
これは極めて狭い選択においては天秤に乗せやすい問題です。
例えば、ある個人が「ロシアンルーレットで勝てば1億円貰える。負ければ当然死ぬ」というギャンブルを持ちかけられたケースでゲームに参加するかといった場合が考えられます。

しかし、国レベルの政策として見た時に「お金」と「命」を逆の天秤に乗せて比較することには大いに疑問があります。むしろ、「お金」と「命」は非常に親和性が高く、同じ側の皿に乗るモノではないでしょうか。


(1)経済・生活苦で自殺する人が
警察庁の発表によると平成23年の経済・生活問題を原因とする自殺者数は6406人です。
お金の問題が彼らの命を奪ったのであり、お金があれば彼らは命を失わずに済んだ可能性が高い。ここではお金と命には正の相関があります。お金を選ぶと命が失われ、命を選ぶとお金を捨てるという対立する類のものではありません。


(2)経済的発展と公衆衛生
WHOの統計(World Health Statistics 2012によると経済的に発展している先進国ほど多くの命が救われています。
例えば、以下のように死亡率や寿命等を見てみます。
Inochi_Money

比較対象は最近幸福の国として話題になったブータン、世界一の幸福国デンマーク、そして日本です。
人の命という観点でみると、デンマーク/日本は「長寿&子どもはほとんど死なない国」です。他の国を見ても「寿命の長さ/子どもの死亡率が低さ」には一定の傾向があります。それは明らかに「経済的に発展している国(お金のある国)ほど寿命が長い/子どもの死亡率が低い」ということです。
国民の大多数が幸せだと答えているブータンは死産が3.6%もあります。そして、生まれても5歳まで生きられない可能性が約5%です。

これは当たり前の話で、経済が発展すれば設備の整った病院等を用意することができます。上下水道といった設備を整えることもできます。日本においても冷凍/冷蔵等の保存技術の進歩により食中毒も減りました。
これらのお金による力で多くの人が死ななくなったり、より長生きできるようになっています。

マクロで見た時、「お金があること」はより多くの命を救って、より長く生きさせるのです。


原発政策でも同じことです。
仮に一部の人が言っているように原発を止めて火力発電に切り替えると燃料費が年2兆円増えるとします。切り替えによってこれがそのままコストになるとします。この想定で原発を使っていた場合には火力発電を使うより2兆円/年をセーブして、他に回せます。例えば、貧困対策/自殺対策/児童虐待対策などです。2000万円で1人を救い上げることができると仮定した場合、2兆円あれば10万人を救えます。
一方、原発で重大な事故があった場合は、大きな損失があります。仮に原発事故の確率が1/50(年)として、その事故が起こると300万人に大きな影響を与えると想定した場合…50年で300万人が想定される損失です。便益とこれを差し引きして有効性は決まります。
 ・便益: 10万人/年
 ・損失: 300万人/50年
単位を揃えると以下のようになります。(ここでは50年に揃えます)
 ・便益: 500万人/年
 ・損失: 300万人/年
つまり、原発事故で300万人という多大な損失を与えますが、それ以上に人を救っているので原発は人の命を救っている良いものとなります。(実際には、原発を止めて火力等に切り替えた場合の他のメリット/デメリットも考慮しなくてはいけません)

上記は実際の数字の妥当性は一切考慮していませんので数字そのものは全く役に立ちませんが、マクロで見た時の思考方法としてこのように考えられるべきです。
そのように考えていく中で「原発を利用した時の便益はそんなにない」であるとか「損失はもっと大きい」といった計算がなされ、総合的に考えて原発はマイナスが大きいとなれば原発は否定されるべきでしょう。
原発問題は「お金か命か」ではありません。脱原発で火力にしても火力発電運用による死者/大気汚染等による死亡者は出るわけで、命はかかっています。
原発と共に生きることは経済問題であり、脱原発も経済問題です。
原発と共に生きることは命の問題であり、脱原発も命の問題です。


まとめ
原発について多く書きましたが、原発政策について言及したいわけではありません。(というか星の数ほどある事例の中の一つに過ぎません)
経済的に貧しく命が早く/多く失われるブータン等の幸福度が高いように、「お金」と「幸福度」の関係は強固ではありません。
しかし、「お金」と「命」の相性は抜群で、「お金と命とどちらが大事」として議論されるものではなく、天秤の同じ側の皿に乗るものでしょう。


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