世の中には努力を高く評価する意見もあります。しかし、私は努力は高く評価しません。
あつまろさんのブログ『あつまろのこだわり資産運用』にて、私はあまり努力を評価したくない・・・とのことをコメントもしました。
理由はいろいろありますが、主には2つ。
(1)努力は手段であり、目的ではない
そもそも努力は、ある目標を達成したいから行う手段です。
ピアノコンクールで優勝するために一生懸命努力する、これが本来の努力の位置づけです。努力とは目標を達成するための手段の一つにしか過ぎません。ある手段を実行したことが褒められるべきなのでしょうか?
「2週間以内に英語で提案資料をまとめる」という指示を受けた時に達成すべき目標は「英語で提案資料を作ること」です。
●Aさんは徹夜で辞書を引きながら一生懸命資料を作成しました。D評価の資料ができあがりました。その結果、この会社はコンペに負けました。
●Bさんはその内容も英語にも精通した人に作業を依頼しました。A+評価の資料ができあがりました。その結果、この会社はコンペに勝ち受注を勝ち取りました。
Aさんは褒められるべきでしょうか?「君は一生懸命やったのは知っている。素晴らしい」でいいのでしょうか?そこまでいかなくても「一生懸命やってダメだったんだから仕方ないさ。」でいいのでしょうか?
私が評価する立場であれば、Aさんの評価は高くありません。Bさんのようなやり方あるのにそれをせずに、自分で努力するという誤った手段を選択した分だけ評価が低くなるかもしれません。
成果だけではなく手段が評価されるとすれば、手段が適切かです。努力が目標を達成するために適切な手段で無かった場合は褒められたものではありません。
(2)努力賛歌主義への嫌悪感
世間では、努力至上主義とでも言うような努力賛歌が幅を利かせている気がしています。しかし、これは真実でしょうか?
●ウサイン・ボルトが早いのは彼が世界で一番努力をしたから。朝原が9秒台で走れないのは9秒台で走る選手より努力が足りないから。
●柔道で古賀稔彦が小川直也に勝てなかったのは古賀稔彦の努力が足りなかったから
●ロマーリオがサッカー史上屈指のFWだったのは、彼の努力が世界中のほとんどのサッカー選手より多く努力したから
●高橋尚子や野口みずきが自身のガードランナー/ペースメーカーより遅いのは彼女たちの努力が足りないから
そういうことなのでしょうか?
私はそんなことはないと考えます。野口みずきが市中の市民ランナー(トップクラス)より遅いのは努力が足りないからとはとても思えません。持って生まれた男性と女性という身体能力における才能の差が大きいはずです。
マンチェスター・ユナイテッドの名選手であるRyan Giggsの「才能だけでプレーできることはあるけれど、自信だけでプレーすることはできない」にあるように、結果を残すには努力だけではどうにもならない壁が存在しています。
才能だけ、もしくは才能と多少の努力だけで、多大な努力をした凡人を上回ることができる人は存在します。凡人同士の間でさえも必ずしも努力の量が結果とは一致しません。
また、1でも書きましたが、努力しているといっている人はただ無能なだけではないか感じることさえあります。
ある人が要領よく効率的な方法で目標を達成しているのに、無駄の多い方法で無駄に時間を掛けてやっている人もいます。私も非効率的な方法で作業して無駄に時間を浪費していることが多々あります。
1日でカタをつけた要領のいい人と、3日も掛けて残業もして一生懸命やった私を比べて、私が高く評価される理由はありません。「吊られた男は本当に仕事が遅いな。こんな仕事1日か2日で片付けられるだろ」と言われるのがオチです。
こういうことがあるので、努力=成功と単純に結びつけるような努力賛歌主義に嫌悪感を抱いています。
もちろん、「努力できる」という特性はその人の個性として評価はします。ただ、努力したという行為そのものには点数をあげたくないところです。
あつまろさんのブログ『あつまろのこだわり資産運用』にて、私はあまり努力を評価したくない・・・とのことをコメントもしました。
理由はいろいろありますが、主には2つ。
(1)努力は手段であり、目的ではない
そもそも努力は、ある目標を達成したいから行う手段です。
ピアノコンクールで優勝するために一生懸命努力する、これが本来の努力の位置づけです。努力とは目標を達成するための手段の一つにしか過ぎません。ある手段を実行したことが褒められるべきなのでしょうか?
「2週間以内に英語で提案資料をまとめる」という指示を受けた時に達成すべき目標は「英語で提案資料を作ること」です。
●Aさんは徹夜で辞書を引きながら一生懸命資料を作成しました。D評価の資料ができあがりました。その結果、この会社はコンペに負けました。
●Bさんはその内容も英語にも精通した人に作業を依頼しました。A+評価の資料ができあがりました。その結果、この会社はコンペに勝ち受注を勝ち取りました。
Aさんは褒められるべきでしょうか?「君は一生懸命やったのは知っている。素晴らしい」でいいのでしょうか?そこまでいかなくても「一生懸命やってダメだったんだから仕方ないさ。」でいいのでしょうか?
私が評価する立場であれば、Aさんの評価は高くありません。Bさんのようなやり方あるのにそれをせずに、自分で努力するという誤った手段を選択した分だけ評価が低くなるかもしれません。
成果だけではなく手段が評価されるとすれば、手段が適切かです。努力が目標を達成するために適切な手段で無かった場合は褒められたものではありません。
(2)努力賛歌主義への嫌悪感
世間では、努力至上主義とでも言うような努力賛歌が幅を利かせている気がしています。しかし、これは真実でしょうか?
●ウサイン・ボルトが早いのは彼が世界で一番努力をしたから。朝原が9秒台で走れないのは9秒台で走る選手より努力が足りないから。
●柔道で古賀稔彦が小川直也に勝てなかったのは古賀稔彦の努力が足りなかったから
●ロマーリオがサッカー史上屈指のFWだったのは、彼の努力が世界中のほとんどのサッカー選手より多く努力したから
●高橋尚子や野口みずきが自身のガードランナー/ペースメーカーより遅いのは彼女たちの努力が足りないから
そういうことなのでしょうか?
私はそんなことはないと考えます。野口みずきが市中の市民ランナー(トップクラス)より遅いのは努力が足りないからとはとても思えません。持って生まれた男性と女性という身体能力における才能の差が大きいはずです。
マンチェスター・ユナイテッドの名選手であるRyan Giggsの「才能だけでプレーできることはあるけれど、自信だけでプレーすることはできない」にあるように、結果を残すには努力だけではどうにもならない壁が存在しています。
才能だけ、もしくは才能と多少の努力だけで、多大な努力をした凡人を上回ることができる人は存在します。凡人同士の間でさえも必ずしも努力の量が結果とは一致しません。
また、1でも書きましたが、努力しているといっている人はただ無能なだけではないか感じることさえあります。
ある人が要領よく効率的な方法で目標を達成しているのに、無駄の多い方法で無駄に時間を掛けてやっている人もいます。私も非効率的な方法で作業して無駄に時間を浪費していることが多々あります。
1日でカタをつけた要領のいい人と、3日も掛けて残業もして一生懸命やった私を比べて、私が高く評価される理由はありません。「吊られた男は本当に仕事が遅いな。こんな仕事1日か2日で片付けられるだろ」と言われるのがオチです。
こういうことがあるので、努力=成功と単純に結びつけるような努力賛歌主義に嫌悪感を抱いています。
もちろん、「努力できる」という特性はその人の個性として評価はします。ただ、努力したという行為そのものには点数をあげたくないところです。
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とても秀逸な記事だと思います。わたしも常々、同じことを考えていました。
がむしゃらに努力することを、評価する風潮に嫌悪感をいだいていました。
わたしの気持ちを代弁してくれるようなすばらしい文章です。