週刊ダイヤモンド(ダイヤモンド・オンライン)に私の意見に近い主張をされている記事があったのでご紹介。

ようするに日銀に
●『日銀に“政治的判断”を押し付けるな』(ダイヤモンド・オンライン/池尾和人 慶應義塾大学教授)
●『日銀は「財政政策」に踏み込んだのか』(ダイヤモンド・オンライン/辻広雅文)

両者共に「世間が日銀に過剰な期待をしすぎ(責任を押し付けすぎ)」ということが根底にあります。これは私も同じ意見です。

日銀の役割は金融政策です。それ以上でもそれ以下でもありません。

以下は池尾氏の記事からの引用です。
芳しくない経済状況に対し、なんら有効な手が打たれないなかで、日銀がさらに積極的にあらゆる施策を打ち出せば事態を改善できる、という議論が強まっている。だが、国の大元にある経済運営の欠陥が引き起こしたマイナスを全部尻ぬぐいして日本経済を好転させるほどの能力は、日銀にない。
経済の実力を引き上げるのは、政治の仕事だ。その根本問題に向き合うことを避け、日銀をスケープゴートにするのは、政治が機能不全に陥っている証明であり、かつ責任逃れだ。(池尾氏)
日本は財政民主主義国家であり、中央銀行には財政政策の領域まで踏み込む権限は与えられていない。妥当性は、政治が責任を持って判断しなければならない。

 要するに、日銀の国債引き受けを禁じた財政法第五条にかかわる問題として、国会で議論すべき事項であるはずだ。まず政治が責任を持って判断を示すべきだ。それなのに、日銀に代わりに暗黙の政治的判断を求めるような政治のありようは、責任の放棄に過ぎる。(池尾氏)
──潜在成長率引き上げなどの本質論から目を逸らし、デフレ退治や日銀の責任で解決を図ろうとするストーリーはなぜ生まれるのか。

 政治家に限らず、私たちは、不都合な真実を見たくない。産業構造の転換が必要とわかっていても、それに伴う痛みは回避したい。
誰もがわかりやすい解決願望を満たすストーリーをつくり、本質的問題から目を逸らさせることが有用になる。デフレや日銀は、そのストーリーの格好のキーワードとなった。


次は辻広氏の記事からの引用です。
 国債はむろん、安全資産である。だが、ルールを越えて大量に保有すれば、後述するような歪みが発生する。つまり、伝統的金融政策の対象にも”異例の措置“がなされている。

 実は、この「国債買い入れの事実上のルール撤廃」と「リスク資産の買い取り」という二つの異例な措置は、政府が深く関わる問題である。
 税に絡むことは財政政策である。財政政策であるなら、政府が行うべきである。なぜなら、日本は憲法83条「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」という財政民主主義を採っているからだ。
当然、中央銀行が独立性のもとに財政政策を独断で行うのは、憲法83条に抵触する。では、むりやり財政政策ではなく金融政策の範囲内なのだと言い張って、リスク資産を大量に買い取り、その結果大失敗をし、前述したような財政支出が必要な事態にでもなれば、それこそ独立性など消し飛んでしまう。
冷静な指摘や合理性に則った議論は、この半年ほど、経済停滞する打開に向けて、日銀への批判と期待が一体となって高まるなかで、まったく省みられなかった。それどころか、日銀が積極的に考えうるすべての施策を打てば現状を改善できる、という議論ばかりが熱を帯びた。
 景気回復も、デフレ脱却も、長期金利の安定も、円高抑制も、株価引き上げも、雇用確保も――あらゆる目的が、金融緩和をすべき理由として挙げられた。政治は与野党ともに、非伝統的金融政策を強要せんばかりだった。強制手段としての日銀法改正が公然と語られた。そこには、中央銀行の独立性の尊重や政府と中銀の果たすべき役割の議論など望むべくもなかった。
 この「包括緩和」が、効果を挙げるかどうかはわからない。そもそも、中央銀行のバランスシートを急拡大させればインフレが高まる、という先進国の実証例はないのだし、デフレの主因は潜在成長率の低下にある、という見方はもはや多数派
 緊急対策だから仕方ない、あるいは、この程度であれば影響は小さい、という言い訳を重ね、既成事実を積み上げた結果、取り返しがつかない結果に至る――そんな失敗を、われわれは歴史上何度も経験してきたはずである。


100%枝葉の部分まで賛成とまでは言いませんが、私も池尾氏、辻広氏と同意見です。
(1)日本の経済成長率低下は日本の構造上の問題であり、これは金融政策では解決できない
(2)緊急対策の名の下に場当たり的に対応するのは国家の危機
(3)日銀に責任を押し付けるのはただの責任転嫁


(1)(3)については池尾氏、辻広氏が語られていますので、(2)について軽く補足します。

一見、緊急事態の対策として特例措置で対応することは正しそうに思えます。確かにこれ以上無いような緊急事態ではその通りでしょう。全てのルールをひっくり返しても緊急措置を取るべきかもしれません。
しかし、普段は違います。日本国家存亡の危機でしょうか?今緊急事態を取らないと日本国家がすぐに滅ぶような事態でしょうか?そうでもないのに簡単に緊急事態という言葉を使って特例を認めるのは危険です。
今は緊急事態だから総理大臣に国会審議を経ずに行動に起こせる特権を・・・
今は緊急事態だから自衛隊に自主判断で動ける特権を・・・
今は緊急事態だから日銀に・・・

このように大きめの問題が起こるたびに、その時々のルールを作って対応するのは巨大な国家という組織になった場合にはまず失敗します。硬直性があるせいでどのケースでも100%正解の答えが出せなかったとしてもです。
特例を使うことは一時的な対応として効果を上げても副作用があります。しかもかなり大きな副作用です。この点を議論せずに、「危機だ!何とかしろ!」はあまりにも危険な思想です。特にその特例を実施した時の効果に疑問符が付くならなおさらです。



最後に池尾氏の量的緩和に対する面白い表現がありましたので、それを引用して終わりにしたいと思います。
全体のおカネをさらに増やすと、動くおカネが増えるのか。量的緩和論者は、そうだと肯定する。だが、私はさらに死蔵されるおカネが増えるだけだと思う。これは、金融政策の効果における非対称性の問題で、「ひもは引くことはできるが、押すことはできない」というたとえが使われる。私は、「小さな子どもに窮屈な服を着せれば成長を阻害する可能性はあるが、ダブダブの服を着せたからといって成長を促進する可能性はない」というたとえを使っている。



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