吊られた男の投資ブログ (インデックス投資)

投資信託を使った低コストインデックス投資/パッシブ投資(バイ&ホールドの国際分散投資)で資産形成を行っている一般サラリーマンの吊られた男が、主に投資やお金のことについて語るブログ。時々、投資やお金以外の話もします。



学校

PTA問題,怒りをぶつける矛先が間違っていませんか?

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ちょっとPTAネタ。
 
今頃は各PTAでは総会もあって年度替わりということで,SNS等を見ているとPTA問題についていろいろ意見があります。
 
その中で多いのは,望まないのに本部役員になってしまった…とかそんなものです。
 
PTAって本来任意の団体で任意の活動をする団体のはずなのに何で役員や加入が強制的になっているの?という声が多く理解するのですが,ここで怒りをぶつける先が本部役員であったり……と何かおかしい気がしています。 

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教師は休んじゃいけない?聖職者?何それ

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書いておきます…

担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意(埼玉新聞)

高校の先生が自分の子どもの入学式に出るために、仕事(入学式)を休んだことに批判が出ているようです。が、ちょっと違うんじゃないかというのが私の意見です。


子どもの気持ちを無視しているのはどっちだろう

来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。
この意見こそが大人のエゴじゃないのか。
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体罰を正当化しがちな理由を考える

体罰はよくないという主張を体罰正当化の理由なんてクソくらえで書きました。

しかし、世の中には体罰を正当化しようとする人がいます。何故、正当化するのか簡単に傾向を考えています。
  (1)体罰によって生徒/学生たちの成績が伸びた(という錯覚)
  (2)体罰を受けた記憶は喉元過ぎると武勇伝になる



(1)体罰によって生徒/学生たちの成績が伸びた(という錯覚)
これは非常に強いように思えます。
県下で有名なスポーツ校などで体罰を実施していた場合などには「この厳しさによって強くなっているんだ」という印象を持つこともあるでしょう。スポーツに限らず勉強等でも同じです。

中学や高校で体罰ありの教育を1年間続ければ、その1年間で子どもたちの能力は伸びるでしょう。しかし、それは体罰の成果ではなく、当たり前の話です。
中学や高校時代は、よっぽどまずいことをしなければスポーツにしろ、勉強にしろ伸びるのが普通です。特別な指導者としての訓練を受けていないOBが1年教えに来たとしても上手くなります。自主練だけでも1年も練習すれば上手くなります。

自然状態でも普通に伸びていくのが中学や高校時代であり、体罰教育による能力向上をもって体罰の有効性があると思うのは錯覚です。体罰を用いていない場合より能力向上が著しいということが示されてこそ体罰の有効性を語る資格があります。(本当は、さらに体罰によって得られるデメリットも考慮しなくてはいかんです)


(2)体罰を受けた記憶は喉元過ぎると武勇伝になる
寝てない自慢、勉強していない自慢、昔は悪かった自慢」…ありませんか?

学生時代の友人と会った時に昔話に花が咲いて次のような会話をすることがありませんか?
「バスケ部つらかったよなー。●●(先生の名前)めちゃくちゃ厳しかったじゃん。ちょっとミスしただけで怒って殴られたり、走らされたりしたよな」
「そうそう、マジでありえなかった。俺なんか夏に外を3時間も走らされたぜ」
「○○(部活仲間)なんて、スゲェ目をつけられてたじゃん。」
・・・

よくある話です。

昔の辛かった体験というのは、それを耐え抜いた人には武勇伝になります。部活に限らず残業に次ぐ残業のデスマーチなども同じです。昔の残業自慢をする諸先輩方の多いこと多いこと…

食糧にさえ事欠き衛生状態に難があるような戦争時の前線の塹壕内のような劣悪な環境は別ですが、体罰があるような環境でも大多数は生き残ります。
体罰→自殺が問題になった高校でも集団自殺があったわけではなく、自殺したのは1人です。大多数は無事に(?)卒業します。
そうすると卒業後にはその環境に耐えたことが武勇伝に変化していきます。厳しい指導や体罰の話を聞いても「俺らも昔にやられたけど耐えたんだぜ・・・」となりがちです。
大多数の武勇伝の陰には少数の自殺者や病気になったものなどがいるのですが、彼らは「我慢できなかった弱い奴ら」とされてしまいます。

しかし、弱さは関係ありません。
どんなに心が強い人たちを揃えても体罰を是とする指導法では何人かは耐えられません。何故ならそれが目的だからです。
体罰の目的はその暴力の力によって恐怖を与えたりすることが目的なのですから、相手の心が折れなければ体罰が強化されていき、皆が恐怖を感じて落伍者が出るところまでエスカレートしていきます。

そこで生き残ると「あんな厳しい環境にも俺は耐えた」「何人か途中で辞めていった奴もいる中で俺らは耐え抜いた」と武勇伝にさらに箔がつきます。

そういう武勇伝のための生贄を出し続けていいものか…



体罰正当化の理由なんてクソくらえ

桜宮高校の体罰→自殺事件で、体罰が注目を集めました。ニュースとしての旬は過ぎましたが、今回はこれをテーマに書いてみます。

桜宮高校の体罰→自殺事件を受けた体罰に関する話で(一部)体罰を擁護するような意見が散見されますがクソくらえです。

【from Editor】一定条件下の体罰(産経新聞)
こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

 まず、対象を故意行為に限るべきだということ。故意行為とはわざと行うことである。サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする−などである。みなが掃除をしているのにさぼったり、たばこをすったり、万引をしたり、といった行為に対して体罰を行うことは意味がある。ねじれた心を正すためである。
教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。だから、体罰の全否定には反対である。

産経新聞の編集委員である大野敏明氏のポイントを挙げると以下のようになります。
 ・教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。
 ・故意の悪い行為には体罰を行うことはねじれた心の矯正で有効だ

何を言っているんでしょう。
「信頼関係があるなら殴られても悪く思わないし、ねじれた心の矯正に有効」って馬鹿じゃないでしょうか。
真に信頼関係があれば、そもそも体罰は必要ありません。口頭の指摘で事足ります。
真に信頼関係があって慕っている人から本気で注意されれば、それは心に響くものです。信頼関係だけでは不十分だからこそ暴力の強制力を借りるのです。

皆さんも体験でわかるのではないでしょうか。信頼している/慕っている人とそうじゃない人がいるでしょう。あの人に注意されるとむかつくけど、あの人に言われたら仕方ない・・・と。
部活の中でも、あの先輩に注意されても「うるせーなー」と思うだけでも、ある慕っている先輩に注意されれば言うことを聞いたりするものです。

私は小学校のサッカーコーチをしていますが、ここでも同じことがあります。
1人のコーチは子どもたちを威圧して支配しています。サボるプレーがあれば厳しく接します。それがねじれた心の矯正につながるということなんでしょう。しかし、もう1人のコーチはそのような厳しさはありません。しかし、信頼からゆえか静かに注意するだけでも子どもはサボらず一生懸命に積極的にやるようになります。

体罰は"必要"でしょうか。前者のコーチは必要だと主張するかもしれませんが、後者のコーチを見る限りは必要ではありません。
体罰しなくては生徒をコントロールできないから体罰が必要だという指導者は、体罰の必要性を訴える前に非暴力では生徒をコントロールできない自身の無能さを問題視した方がいいですよ。

体罰という名の暴力に訴えるのは以下のどちらかが理由でしょう。
  (1)信頼関係がない、指導する能力に欠ける
  (2)実は(信頼関係があるから口頭でも十分で)無意味


そもそも、大野敏明理論が成立するなら産経新聞はどうしているのでしょうか。

「サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする」といった行為は社会人の民間企業の中でもあることです。産経新聞の中で、このような行為があった場合には体罰を行っているのでしょうか?



私の著書 - ズボラ投資
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