桜宮高校の体罰→自殺事件で、体罰が注目を集めました。ニュースとしての旬は過ぎましたが、今回はこれをテーマに書いてみます。

桜宮高校の体罰→自殺事件を受けた体罰に関する話で(一部)体罰を擁護するような意見が散見されますがクソくらえです。

【from Editor】一定条件下の体罰(産経新聞)
こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

 まず、対象を故意行為に限るべきだということ。故意行為とはわざと行うことである。サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする−などである。みなが掃除をしているのにさぼったり、たばこをすったり、万引をしたり、といった行為に対して体罰を行うことは意味がある。ねじれた心を正すためである。
教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。だから、体罰の全否定には反対である。

産経新聞の編集委員である大野敏明氏のポイントを挙げると以下のようになります。
 ・教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。
 ・故意の悪い行為には体罰を行うことはねじれた心の矯正で有効だ

何を言っているんでしょう。
「信頼関係があるなら殴られても悪く思わないし、ねじれた心の矯正に有効」って馬鹿じゃないでしょうか。
真に信頼関係があれば、そもそも体罰は必要ありません。口頭の指摘で事足ります。
真に信頼関係があって慕っている人から本気で注意されれば、それは心に響くものです。信頼関係だけでは不十分だからこそ暴力の強制力を借りるのです。

皆さんも体験でわかるのではないでしょうか。信頼している/慕っている人とそうじゃない人がいるでしょう。あの人に注意されるとむかつくけど、あの人に言われたら仕方ない・・・と。
部活の中でも、あの先輩に注意されても「うるせーなー」と思うだけでも、ある慕っている先輩に注意されれば言うことを聞いたりするものです。

私は小学校のサッカーコーチをしていますが、ここでも同じことがあります。
1人のコーチは子どもたちを威圧して支配しています。サボるプレーがあれば厳しく接します。それがねじれた心の矯正につながるということなんでしょう。しかし、もう1人のコーチはそのような厳しさはありません。しかし、信頼からゆえか静かに注意するだけでも子どもはサボらず一生懸命に積極的にやるようになります。

体罰は"必要"でしょうか。前者のコーチは必要だと主張するかもしれませんが、後者のコーチを見る限りは必要ではありません。
体罰しなくては生徒をコントロールできないから体罰が必要だという指導者は、体罰の必要性を訴える前に非暴力では生徒をコントロールできない自身の無能さを問題視した方がいいですよ。

体罰という名の暴力に訴えるのは以下のどちらかが理由でしょう。
  (1)信頼関係がない、指導する能力に欠ける
  (2)実は(信頼関係があるから口頭でも十分で)無意味


そもそも、大野敏明理論が成立するなら産経新聞はどうしているのでしょうか。

「サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする」といった行為は社会人の民間企業の中でもあることです。産経新聞の中で、このような行為があった場合には体罰を行っているのでしょうか?


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